ウルトラたマン通信 第39号 (2005年3月1日発行)今、60年前の激戦地を訪ねて今年、沖縄は戦後60年を迎えます。沖縄戦を経験された方には、辛く思い出したくない歴史だと思います。しかし戦争を経験し、その恐ろしさを語れる方が少なくなり、戦跡も消えていく今、戦争の恐ろしさを目に見える形で語り継ぐことは必要だと思います。今回は、「たまん昼メロ」金曜日担当の國場勇次郎さんに戦跡を巡りながら、沖縄戦についてお伺いしました。 国吉の戦闘当時、米軍は那覇からではなく、東風平方面から糸満市内に攻めてきました。
昭和20年6月6日兼城村内へ侵入。北波平を占領します。6月8日座波を占領。 6月11日糸満町を占領。6月12日〜6月17日まで日本軍最後の防衛戦である、 八重瀬岳・与座岳・国吉岳で戦闘が行われました。米軍は日本軍が摩文仁に進んだため、この三箇所のいずれかを突破しなければいけませんでした。日本軍は、摩文仁へ行く道を扇形で防いでいます。三箇所とも米軍は進んだようですが、国吉岳が最後の激戦地になっています。その頃、首里を制圧し摩文仁にいる牛島中将を捕らえるのみとなりました。米軍は、国吉岳を越えるとき口笛を吹きながら通っていました。すでに、戦争は終わったものだと思っていたようです。しかし、国吉岳では日本軍が待ち受けていました。この激戦地の場所は今の糸満小学校の信号から糸満高校を抜け、サンエー食品館を過ぎ、字国吉に向かう道が当時の国吉の戦闘のあった場所です(地図参照)。日本軍の反撃にあった米軍はかなりの犠牲者を出しました。戦車21台大破・死傷者1000人以上に上ります。後、日本軍は米軍による雨のような銃撃と爆弾で壊滅し、国吉岳防衛線は突破されてしまいます。容易だと思えたわずかな距離を、日本軍の反撃により糸満小学校から国吉岳を抜けるまでの距離に5日間も費やしました。 雨が続いて他の道はぬかるんでいたため、国吉岳の一本道を通るしかなかったのです。そのため米軍は大きなダメージを受けることになりました。
部隊を指揮していたバックナー中将が狙撃された場所に慰霊碑が建っています。また、バックナー中将を狙撃した場所がその近く(100メートル先)にあります。川尻門中の近くに壕が当時あり、そこから狙撃しています。 《編集後記》國場勇次郎さんは、「重要な戦跡(歴史)があるのに、人々が興味を持たないため歴史上から消えてしまわないか心配です。」とおっしゃっていました。ぜひ皆さん、戦跡を巡って平和について考えてみてください。勇次郎さん今回のご協力ありがとうございました。 ●ここからは、「ウルトラたマン通信」には載せることのできなかった勇次郎さんからお聞きしましたお話を紹介します。
ここに壕があったそうで、一緒に探したそうですがそのときには見つからなかったそうです。 詳しくは、國場勇次郎さんの『言いぶさかってぃ』を御覧下さい。
近々、このヨナブムイの川は区画整理のため埋め立てになります。 戦争の現場になった場所が少なくなる今、戦跡地訪ね残すことが必要だと思い、今回取り上げることになりました。 参考資料 (1)『泥と炎の沖縄戦』―あるマリン兵の回想/E.Bスレッジ (2)『日米最後の戦闘』/米国陸軍省 (3)『言いぶさかってぃ』/國場勇次郎 ※好評発売中 |
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VHS: \3,000 (込) |
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